「マオリ人」といっても、日本ではあまりなじみがないと思います。しかし、マオリ人はニュージーランドの先住民であるだけでなく、現在でもその言語や文化はニュージーランドの中に深く溶け込んでいます。
日本ではなじみがなくても、ウェッブ上には多くの資料があります。ここでは Te Tomokanga - Maori Resources Online の中の Maori History Overview のコーナーを中心に、いくつかの資料を参考にして「マオリ」を紹介します。
■マオリ人とは?
マオリ人はアオテアロア(Aotearoa)、すなわちニュージーランドの先住民です。身体形質、文化、言語ともポリネシア系です。
ただし、一口にマオリといっても、多くのイウィ(Iwi、部族)、ハプ(Hapu、イウィの下位分類)及びファナウ(Whanau、拡大家族)から成り立っており、習慣や方言もさまざまです。また、ファナウ及びハプのレベルで多くのことが統一されていると言うことも重要です。現在でも、土地問題や人権問題で何かを要求するときには、この単位で団結します。さらに、宗教もハプごとに異なっています。
■人口
1996年の国勢調査によると、マオリ人の人口は 50 万人以上であり、これはニュージーランドの全人口のおよそ 15% に相当します。ただし、この統計にはヨーロッパ系ニュージーランド人との2世・3世を含んでおり、純粋なマオリ人となると非常に少ないと言われています。
また、95% 以上のマオリ人が北島に住んでいます。
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■起源
多くのマオリの伝承では、マオリ人の先祖は今からおよそ1,000年前にハワイキ(Hawaiiki)と呼ばれるポリネシアの島からカヌーに乗ってやって来たことになっています。具体的にどの島なのか興味がわきますが、マオリ人の信仰では死者はハワイキに行くそうなので、具体的な島である必要はないのかもしれません。
太平洋上の島に住む、ある種のネズミ(Pacific Rat)は、およそ1,000年前にニュージーランドに来たと言われています。しかし、最近の研究では、もっと以前にネズミが来たという証拠が見つかっているそうです。場合によっては、さらに1,000年さかのぼるかもしれません。ネズミが泳げたと考える証拠はないので、ポリネシア人の移動に伴ってニュージーランドに来たと思われます。
ニュージーランドでは、1300年前後に大規模な海底火山の爆発があり、地層に影響を与えています。この地層がはっきりしているため、考古学的な研究に役立っています。この点からの研究によると、最も古いポリネシア人の移住がこれ以前だったとしても、大半のマオリ人はこの直後にやって来たと言えるそうです。また、初期の移住先は南島だったようですが、そのあとの大量の移住先は北� �だったそうです。
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マオリ人はすぐに鳥や魚を捕ることを覚え、これをおよそ 150 年間のあいだ主食としました。この間に人口も増えたようです。しかし、こういった簡単に手に入る食糧資源が乏しくなってしまったので、ほかのものを主食とせざるを得なくなりました。また、15世紀には気候の変化もありました。気温は常に低く、南風が国土を乾燥させ、強風に影響で山火事が続き、(残存していたモアを含んだ)多くの動植物を破滅させました。この時代をミニ氷河期と呼ぶ人もいます。
したがって、シダの根を探して食料とし、クマラ(サツマイモ)やタロイモの畑を作り、夏の間は海岸で魚を捕るという生活になりました。魚は保存のため薫製にされました。簡単に捕獲できる鳥がいなくなったので、さらに奥地まで分け入って鳥を採取することになり、このことがマオリ人の食料供給に対する態度を変化 させました。厳しい冬を乗り切るために、ますます多くの食料を貯蔵する必要が出てきたからです。
この結果、食料を得るためにより広い土地が必要とされるようになり、マオリの歴史で初めて、土地の境界線をはっきりさせる必要が出てきました。確執が生まれ、時には地域間で争いが起こりました。マオリの村はすぐに防御に適したスタイルになりました。柵、物見櫓、濠が作られました。
16世紀に入って気温が上昇し、大量の雨と強風が森林や植物を破壊しました。洪水も増えましたし、海岸は強風のため住みにくくなりました。この気候の変化のため海岸の魚介類は大打撃を受け、食糧資源はさらに乏しくなりました。マオリ人はさらに内陸に移動し、あらたな気候と生活環境に適応せざるを得なくなりました。
たいていは、コミュニティーで狩猟・農耕・婚礼・編み物・料理をしていました。ハプの活動には、食べ物の採集、栽培、及び戦争が含まれていました。芸術はマオリのコミュニティーの重要な分野でしたし、現在でもそうです。詩、美しい言葉によるスピーチ、入れ墨、木・骨・石を使った彫刻などです。共同で使う建物は彫刻によって精巧に装飾されていますし、多くのマオリ人はペンダントなどの装飾品を身につけています。
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■ヨーロッパ人との出会い
1526年に、あるスペイン人が船に乗って釣りをしているときに偶然ニュージーランドにたどり着いたという記録があるそうです。しかし、一般的には、ニュージーランドにたどり着いた最初のヨーロッパ人はアベル・タズマン(Abel Tasman)だと言われています。1642年の12月のことでした。タズマンとその部下は上陸しようとしましたが、マオリ人との間で争いが起こってしまい、死者まで出る始末で、結局上陸はできませんでした。
ニュージーランドに初めて上陸したヨーロッパ人は、有名なキャプテン・クック、つまりジェームズ・クック(James Cook)です。1769年の10月6日から11日にかけて、ニュージーランドに滞在しています。その後、今日に至るまで、数え切れない外国人がアオテアロアにやって来ており、とどまることを知りません。
ヨーロッパ人の入植直後には、不幸な争いが多く起こりました。このころには、まだ部族間の争いもありました。しかし、マオリ人もしだいにヨーロッパ人に慣れ、村に招待するなどの交流も始まりました。
■ワイタンギ条約(Treaty of Waitangi)
多くのヨーロッパ人が、金、オットセイの毛皮、そして土地を求めてニュージーランドにやって来ました。やがて土地の所有権をめぐって白人とマオリの衝突が深刻化し、1840年2月6日、イギリス女王代理の総督とマオリの指導者 46 人との間でワイタンギ条約が締結されました。これ以降ニュージーランドは事実上イギリスの植民地となりました。しかし、この条約には不平等な点があり、その後も多くの争いや訴訟が起こっています。その一方で、現在でもこの条約がマオリ人の人権を保護する根拠となっています。
■人口の減少
他の多くの民族と同じように、マオリ人もヨーロッパ人との接触によって人口が減りました。イギリス人との土地争いで村が焼き払われるようなこともありましたし、アルコールや銃が悪い結果を生みました。また、天然痘・インフルエンザ・風疹・結核・百日咳・腸チフスなどの病気に対して、まったくあるいはほとんど抵抗力がなかったことも災いしました。
1769年には 120,000 人だった人口が、1896年には 42,000 人になりました。19 世紀後半には、マオリ人は消滅しつつあると考えるヨーロッパ人もいました。当時マオリ人は田舎に住んでいたため、医療を受けるにも困難で、手遅れになることが多かったようです。
しかし、これを何とかしようとする運動があり、次第に状況は改善されていきました。官公庁に職を得て、自分たちの要求を主張しようとするマオリ人があらわれました。また、マオリ人自身の考え方にも変化が起き、衛生面・教育面・経済面で現実的な選択をする部族が出てきました。1920年代には、彫刻などのマオリ芸術が盛んになりました。
■土地所有権問題
土地の所有権に関しては、非常に多くの問題・訴訟が起こりました。このため、The Waitangi Tribunal という政府組織が設立され、ワイタンギ条約に関する訴訟を取り扱うようになりました。さらに、1995年には、エリザベス女王が過去の争いに関して公式に謝罪(formal apology)し、マオリ人が失った財産や生命の補償を約束しました。
■今日の課題
第 2 次世界大戦の結果、マオリ人に新しいチャレンジが必要になりました。失業に直面し、職を得るために都市部に移動し始めたのです。これは伝統的な枠組みを大きく変えました。家族内においても、親がマオリ語と英語を話すのに、子供が英語しか話せないといった変化が起こっています。テレビや工業製品の利用やヨーロッパ人との結婚などによって、ますますマオリ社会の特徴が消えつつあります。
その一方で、マオリ人の社会進出の結果、平等を保証する法律も整備されています。雇用や教育の面で差別のないように法律で定められています。現在マオリ語は公用語となっていますし、マオリ語のテレビ番組もあります。最近はニュージーランドが観光立国するという考え方が定着しており、マオリ文化の紹介は重要な観� �産業にもなっています。
健康・失業・教育は依然として大きな問題であり、21 世紀の三大問題点と言われています。マオリ語の教育も重要です。インターネットで無料でマオリ語教育をする試みも行われています。さらに、インターネットを通してマオリ人のコミュニティーを作る試みもあります。
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