でも、もがくのを止めたらもっと苦しくなるような恐怖心があるので、もがくことを止めることが出来ません。
海や川でおぼれている人は「ワラをもつかむ気持ち」で必死になってもがきます。でも、実際にはもがけばもがくほど沈んでいくし、息は苦しくなるし、冷静な判断は出来なくなります。
そんな時は、フッと力を抜けば浮くのです。さらに、冷静になることも出来ます。無駄に酸素を消耗することも減るでしょう。
とは言っても普通の人にはそんなことは出来ません。苦しい時には苦しみから逃れることしか頭の中にないからです。
でも、このブログをお読みいただいて下さっている人の苦しみはそれほど切羽詰まってはいないと思います。
おぼれている人は何もしなければ死にますが、みなさんはもがかなくても死にはしないのですから。
人はどんなに心が苦しくても、(自分で自分を殺さない限り)それが原因で死んだりはしないのです。
それは「生命」が「あなた」を支えていてくれるからです。「あなた」がどんなに苦しい時でも「生命」は「あなた」をあきらめないで、「あなた」を支え続けているのです。
食べれば、消化吸収してくれるし、ケガをすれば治してくれるのです。
それは「お母さん」の働きと似ています。その「お母さん」は、あなたが「自分」をあきらめない限り、絶対に「あなた」をあきらめません。
だ から、自分ではどうしようも出来ないほど苦しくなってしまったら、その「お母さん」(生命の働き)に任せてみませんか。
悩むのをやめたらどうなります。苦しむのを止めたらどうなります。もがくのを止めたらどうなります。
どうもならないですよね。空が落ちてくるわけでも、地面が裂けるわけでも、死んでしまうわけでもありませんよね。
だったら、何のために苦しんでいるのですか。何のためにもがいているのですか。
このことを考えてみて下さい。
「お母さんのせいで・・・」とお母さんに恨みつらみを言う人は、お母さんが大好きな人です。だからこそ、お母さんから受けた苦しみを忘れることが出来ないのです。
そのような人はお母さんを忘れたくないからいつまでも苦しみ続けるのです。
でも、苦しまなくてもあなたは死ぬまでお母さんと一緒なのです。なぜなら、あなたのからだ、あなたの生命はお母さんにもらったものだからです。
その「お母さんからもらった生命」があなたを支えているのです。それがお母さんの愛情であり、本当のお母さんの姿です。
ですから、自分の生命に気づき、自分の生命に感謝する時、人は誰でも「お母さん」と出会うことが出来るのです。
道端に花が咲いていたら立ち止まって、� ��にはしゃがんで見つめて見て下さい。その時、生命が喜び「お母さん」と出会うことが出来ます。
子どもの遊びは全てそのようなものです。子どもは遊びの喜びの中で「お母さん」と出会っているのです。だから遊ぶことが大好きなんです。
その遊びを否定することは、お母さんが「お母さん」を否定することです。だから子どもは「お母さん」を見失ってしまうのです。
ただし、毎回同じようなことを言いますが、「子どもの人生が子どものものだ」と言っても、だからと言って「子どもが自分勝手に生きていい」という意味ではありません。
そうではなく、簡単に言うと「後悔しない生き方をする」ということです。
「自分の人生を自分のものとして生きる」ということは、「後悔しない生き方をする」ということです。
「こんな私に誰がした」と愚痴ばかり言う毎日を過ごしていても、やがて死は訪れます。その死を前にして自分の人生を振り返った時、「私の人生は愚痴ばかりだった」と気付いても手遅れだという ことです。
人は愚痴を言うために生れてくるのではありません。自分の人生を生きるために生れてくるのです。
そして、子どもたちが「自分の人生」を生きることが出来るように支えてあげるのが、子育てや教育における大人の役割だということです。
その場合における「学ぶ」ということの意味は「自由になる」ということです。そして、「自由になる」ということの意味は「束縛から逃れること」ではなく、「束縛されない能力を得ること」です。
そのために知識や知恵を学び、技術を身につけ、工夫する能力を育てるのです。
あなたがたった一人で無人島に流れついたとします。その時、助けてくれる人がいない、電気がない、水道がない、食べ物がない、虫がいるなどといって文句ばかり言っているとし� �ら、あなたはその無人島に束縛されている不自由な人です。
でも、自分の頭で考え工夫し、自分の心と感覚で感じ気づき発見し、自分の責任と意志で行動することで生き延びようとすることが出来るなら、あなたは自由な人です。
この無人島を「人生」と考えることも出来ます。
だからこそ、子どもたちは自由になるために学ぶ必要があるのです。
でもそれは、子どもを自由勝手にさせることではありません。自由に生きる能力を得るためには不自由と向き合う必要があるのです。
自由勝手に育てられてきた子は、不自由から逃れようとするばかりで、乗り越えようとはしなくなってしまうでしょう。でも、逃げてばかりではやがて袋小路に追い込まれてしまいます。
昔の子どもたちの遊びには、その「不自 由」がありました。
コマ回しでも、剣玉でも、竹馬でも、お手玉でも、練習しなければ出来ませんでした。そして、その努力に応じて上手下手もありました。そして、上手な子は尊敬されました。だからみんな頑張ったのです。
そして、頑張ることで不自由を乗り越える感覚を育てていたのです。そしてその過程で仲間との強いつながりを育てることも出来ました。
でも、今の子どもたちは楽を求め、その不自由から逃げようとするばかりで、乗り越えようとはしません。そして、すぐお金で問題を解決しようとします。
もっと新しいソフト、もっと強いカード、もっと機能が高いおもちゃを買ってもらおうとするのです。そして、そのお金は親に依存しています。
どのように家族が健康を促進するためのシステムとして働いていますか
造形の現場でも、今の子どもたちはちょっと思い通りにいかないとすぐに投げ出します。逃げることで自由を得ようとするのです。でも、逃げてばかりいたら自由に生きるための能力は育ちません。そもそも、逃避そのものが一つの束縛なのですから、逃げてばかりいたらますます自由を失い、苦しくなるばかりです。
そのような状態に対して、古い大人たちは、「我慢」を押しつけようとしています。でも、その「我慢」を押しつけられて来た子どもが大人になって、我慢できない子ど子たちを育てているのが今の日本の状態なのです。
ですから、子どもたちに「我慢」を押しつけることはますます状態を悪� �させるだけなのです。
「じゃあ、どうしたらいいのか」ということですが、このような問題を解決するためには、子どもの「からだ育て」が一番効果的だと思います。「自由なからだ」を育ててあげるのです。
「我慢」を学ばせるのではなく「自由」を学ばせるのです。
(自由にさせるのではありません。「自由」を学ばせるのです。)
「自由なからだ」は「心」とつながったからだでもあります。「意識」や「意志」や「感覚」や「知性」ともつながったからだでもあります。
そして人は「自由なからだ」を得ることで、「心の自由」を得ることが出来るのです。「心」と「からだ」は一体だからです。
色々なことに束縛されて自由を失ってしまっている大人においても同じことが言えます。
子どもに対してだけでなく、「それがあなたのためなんだから」という言い回しもよく聞きます。
子どもを勉強や様々な習い事に追いまわしている人も「子どものために」頑張っているのでしょう。
逆に、そういうものに流されないようにして、自然の中で自由に遊ばせてあげようとしている人も「子どものために」頑張っているのでしょう。
うちの四番目は生まれてからすぐひどいアトピーになりました。からだにはあまり出ませんでしたが、顔中ひどいヤケドのような状態で、ジクジク、ズルズルで、おんぶしていると背中が血で赤くなりました。
そんな状態の赤ちゃんをおんぶして歩いて� �ると、色々な人が話しかけてきます。そして、色々な体験談を話してくれます。
温泉や鍼灸や食べ物などで良くなった、という人もいれば、ステロイドで良くなったと言う人もいました。
でも、「悪くなった」と言う人は一様にステロイドの使いすぎでした。「ステロイドで良くなった」という人もいましたが、その場合もそのお医者さんが慎重にステロイドを使っていたようでした。
ステロイドは非常に効果的なので、つい使いすぎてしまうのでしょう。でも、免疫力を無視するほど薬を使ってしまっては免疫力が萎えてしまうので、ますます薬が効かなくなります。すると、ますます大量のステロイドを塗りたくるようになります。
ある人は、壁のようにステロイドを塗っていたと言っていました。それでも次第� �効かなくなり、寝るときはベッドに手足を縛りつけていたそうです。そうでないとあまりの痒さのため、肉の中までかきむしってしまうからです。結局、成長障害を起こして大変な状態だと言っていました。
ただし、この人の場合は何十年も前の話ですから、まだ医者にもステロイドの危険性に対する認識がなかったのでしょう。
どんな場合でもからだを治すのは薬ではありません。からだを治すのはからだ自身です。薬はその手助けをするだけです。そして手助け以上のことは出来ないし、してはいけないのです。
薬には免疫力を支える力はありますが、免疫力の代わりとして働くだけの力はないのですから。
からだの免疫力が萎えてしまったら、その薬すらも効かなくなってしまい、本当に困ったことになってしまうのです。今、抗生物質がその状態になりつつあります。
子育てや教育においても同じことが言えます。
子どもの成長は子どもの意志によるものです。大人はそれを手助けすることは出来ますが、「あなたのためなんだから」と言って色々なものを押しつけ、その意志を否定してしまったら子どもは成長できなくなります。
どんな素晴らしいことを学ばせようとしても、どんなにお金をかけて色々な教室に通わせても、本人が学ぶこと、成長することを拒否するようになってしまったら、もうどうしようもないのです 。
そして今、そのように「押しつけられ過ぎている子ども」が増えてきています。そのような子は無気力です。言われたら、言われたことだけを最小限の労力でやりますが、それ以上のことはやりません。その場合、その子を動かしているのは「成長への意志」ではなく、「叱られることへの恐怖」です。
もしくはゲームの世界に逃避してしまい、大人の言うことを拒否してしまっている子もいっぱいいます。
そのような子においては、頭も意志も働きません。ただ、大人の顔色を見て行動するだけです。そして、追い立てる人がいないと、何もしません。
子育てや教育で一番大切なことは、子どもの「成長への意志」を支えることなんです。それが本当の意味での「子どものため」なんです。
ただし、だからと� �って色々なことを学ばせることや、習い事をさせることが無意味だとか、害になるということを言っているわけではありません。
ステロイドと同じように、ようは「使い方」の問題だということです。子どもの「成長への意志」を否定してまで押しつけるのはよくないということです。
うまく使えば、何もしないより、子どもの成長への意志を育てる可能性もあるのは事実です。
でも、逆にいえば「ステロイド」のような薬を使わなくても、子どもの成長への意志を育てるような関わり方をしていれば、子どもはどんどん育っていくということです。そして、そちらの方が失敗の危険性は少ないです。
一般的に、効果的な薬には強い副作用があるのです。その副作用を最小限に保ちながら薬の効果を発揮させるために� �、高度に専門的な知識が必要になります。
ですから、目先の効果に目を奪われるような人がその薬を使うと取り返しのつかないことになってしまうのです。
確かに、幼い頃からすごい能力を発揮させるような方法(薬)があるのも事実です。そして、その方法を使えば天才少年を創り出すことも可能でしょう。
でも、問題はその子どもたちがどのような大人になるのかということです。「子どもの時から死ぬまで天才少年のまま」などということは、ほとんどあり得ないのですから。
(モーツアルトやピカソのように、歴史上にはそういう人もいますが、その多くは人間関係において普通ではありません。発達障害が疑われる人も結構います。)
tessaltionsは芸術に影響を与えたか
元・「天才少年」が子どものころから与えられ続けてきた強い薬の副作用で、大人になってからの人生を苦しみ続けないことを願うばかりです。
ちなみに、我が家は結局ステロイドを使わないで乗り越えました。三歳ごろにはケロイド状態は消えました。
今ではアトピーは完全に消えています。
その後、喘息になりましたが、中学三年の今、体力もついてきてその喘息も大分収まってきています。(喘息はステロイドを使わない医者に行っています。)
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生徒募集です。
●「ネネムの森造形教室」 茅ヶ崎市円蔵の自宅で行っています。詳しくはチラシをご覧になってください。
●� ��現遊びクラス「ポコペン」
音で遊ぶ、踊って遊ぶ、劇で遊ぶ、描いて遊ぶなど、様々な表現を楽しんで遊ぶクラスです。月2回、JR茅ケ崎駅周辺の会場で行っています。
●「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。
詳しくは<チラシ>をご覧になってください。
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これまでも書いてきたことですが、子育てや教育には、「子どもの心とからだを育てる方法」と「子どもの能力を育てる方法」の二種類の方法があります。
いずれの場合も「子どもを育てる」という言い方をしますが、この両者ではその行為における主人公も、また対象としているものも異なります。
そして現代人は「子どもの能力を育てるやり方」の方を選んでいます。それは「能力育て」の方が結果が見えやすいし、子育てや教育の意味も明確にしやすいし、子どもや教育の評価もしやすいし、管理もしやすいし、将来の経済的有利さも得ることが出来るからでしょう。
また何よりも、大人の努力が子どもの� �力の育ちの中に結果として現れるので、頑張りがいもあります。
それに対して「心とからだを育てる方法」では、結果が見えにくくなります。大人がどんなに頑張ったとしてもその努力が結果に反映されるとは限りません。むしろ、無理な頑張りは子どもを委縮させ、心とからだの育ちに悪影響を及ぼします。
子どもの心とからだを育てる方法において大切なのは、子育てに対する方法や努力ではなく、親自身の信念や生き方なのです。
その信念や生き方があるから、結果に振り回されないのです。結果に振り回されてしまう人は「能力育て」の方が安心するのです。
その子育ての結果が現れるのは、子どもが親から離れて自立するようになってからです。それでも、それが自分の子育ての結果かどうかは不明で� ��。
心に傷を負った人は、「この心の傷はお母さんのせいだ」と言いますが、ニコニコして幸せな人は、「この幸せはお母さんのおかげだ」とは言わないものです。
「心の傷」の場合は「あの時のあの言葉や行動が・・・」と因果関係を明確にすることが出来ますが、「幸せな気分」は毎日のさりげない日常の中で育つので因果関係がはっきりしないからです。
ですから自分の努力の見返りを求める人はみんな「心とからだを育てる方法」ではなく、「能力を育てる方法」の方を選びます。
「子どものこの能力は私が頑張って身に着けさせたものです。どうです、すごいでしょ。」と言うことが出来るからです。
「天才を育てる方法」などというようなタイトルの本はそれを自慢するためのものです。
それが� �本主義経済に生きる現代人の当然の感覚です。今時「見返りを求めない行為」を喜んでやる人はそれほどいません。
でも、この二つの異なった方法は、当然のことながら子どもの育ちに異なった結果として現れます。
心とからだが育った子は、特別な能力や才能は持っていないかもしれませんが、「心とからだの自由」を手に入れることが出来ます。自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意志と判断で行動することが出来るからです。
特に「これが出来る」という固定的な能力はなくても、色々なことにチャレンジすることが出来る自由な能力は持っているのです。
それに対して、「能力」を育てられた子は特別な能力や才能を持っています。ただし、それは親が成功した場合の話です。
「能力育て」� ��目指す子育てや教育は競争原理に支えられているので、成功するのはほんの一握りの親子だけなんです。
ほとんどの場合は、途中で親が挫折するか子どもが挫折するかして失敗します。そして、心とからだも、能力も育たず、親子ともども「傷ついた心」だけが残ります。
それでも、その競争に勝ち抜いて、何らかの能力を得ることが出来た子どもはそれはそれで幸せなのかもしれません。
でも、「能力」と言うものは基本的に適応分野が限られているので、自分の人生を自分の意志で自由に生きることが出来なくなります。「能力」と言うものは人間を特殊化するための方法だからです。
サッカーや野球やピアノなどの素晴らしい才能を持っている人は他の生き方を選択することが困難になります。勉強も同じです� ��
小さい時からピアノ教室に通わされて、それなりに実力も付いたのに、「ピアノとは全然違う仕事がやりたい」と言ったら、親は「私を裏切ったな」と怒りだすでしょう。
東大を出たのに、「肉体労働者になりたい」と言ったら親は怒りだすでしょ。
身に付いた「能力」はそのまま「親の期待」なので、その能力に縛られて生きるということは、「親の期待」に縛られて生きることと同じになってしまうのです。
たまたま、「親の期待」と「自分のやりたいこと」が一致している場合はそれでもいいのですが、そうでない時には苦しいことになります。
「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。
詳しくは<チラシ>をご覧になってください。
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私たちは何気なく「育てる」という言葉を使いますが、でも人によってその言葉の主人公が違います。
フラッシュでピアノを演奏する方法
子どもが育ちの主人公である場合も「育てる」と言いますし、大人が「育ててあげている」という意識の時にも「育てる」と言います。そこに言葉としての区別はありません。
でも、その意識の状態は正反対ですし、子どもの状態も正反対になるでしょう。
子どもが育ちの主人公で、大人がそれをサポートするような子育ての場合、子どもは自分が「自分の人生の主人公」としての意識を持つことが出来るでしょう。
でも、大人が主人公で子どもはその命令に従うだけの子育ての場合、子どもは依存心ばかり強くなり、自己肯定感を育てることが出来なくなってしまうでしょう。
単に「大人になること」が「育つ」とか「成長する」という ことなら、確かにそれでも子どもは育って行くでしょう。
そして、社会的にはそれだけで充分なのかも知れません。
でも、「育てる」ということを、「心やからだの育ち」まで含めて考えると、違う問題が見えてきます。
「育ててあげている」という意識の子育ては、「育てる」というよりも、内容的には「強制」や「調教」や「生産」に類する行為です。だから、工場のように育てる側の都合に合わせてスケジュール管理をしようとします。
でも、それに合わせることが出来るのは暗記や訓練によって育てることが出来る「能力」と呼ばれるものだけであって、心やからだは育てることが出来ません。なぜなら、心やからだの成長は「生命が決めたスケジュール」に従うように出来ているからです。
それは何十万年も前から決まっているスケジュールです。社会が合理化され 、全ての作業時間が短縮しても、子どもの心とからだの育ちにかかる時間は短縮することが出来ないのです。
それは妊娠期間を短縮することが出来ないことと同じです。「忙しい時代だから妊娠期間を一週間にしたい」などと言ってもそれは不可能なんです。
だから、子どもの心とからだを育てる時には、励まして、寄り添って、見守って、待ってあげるしかないのです。
その理解がないから、強制し、調教すれば子どもは大人の都合通りに育つなどと思い込んでしまうのです。
確かに、強制や調教のような子育てや教育で「成功した」と言っている人たちがいるのも事実です。本屋さんに行くと、そのような成功体験を書いた本がいっぱい並んでいます。
それは、その方法によって「大人の期待通りの能力の子� �育った」ということなのでしょう。それは、東大に合格したとか、何らかの優秀な選手に育った、という類の話です。
確かに、能力を育てるだけなら強制や調教や様々なマニュアルが効果的な場合があります。そして、今、本当に多くの大人が子どもの「能力育て」に夢中になっています。
子育ても、教育も子どもの能力を育てることだけを目的にしている人がいっぱいいます。学校もまたそのような場になってしまっています。
なぜなら、子育てや教育を「能力育て」と置き換えることで、簡単に子育てや教育の目標を決めることが出来るからです。
心やからだの育ちはなかなか目に見えません。ですからそれらを育てるためには「待つこと」とや「寄り添うこと」が必要になります。でも、どんなに頑張って待っ� �も、また一生懸命寄り添っても、なかなか目に見える形での成果は得られないものです。
なぜなら、子どもの「心とからだの成長」は「大人のため」のものではなく、「子どものためのもの」だからです。子どもが大人になった時に、自立した一人の人間として幸せに生きていくために必要な能力なのです。
だから分かりにくいのです。そして、そのため「信じる」ということも必要になるのです。
それに対して、「能力の育ち」は比較可能な形で目に見えるので、親の努力の結果も分かりやすくなり、目標を立てやすくなります。またそのため、容易に達成感も得ることが出来ます。だからすぐに飛びついてしまうのです。
でも、当の子どもはそれを望んでいるのでしょうか。
また、そのように育てられた人が、他の人と「幸せな関係」を築くことが出来るのでしょうか。
能力だけを育てられ、「生命の知恵」を失ってしまった人が、人間以外の生命や自然や地球と共存していくことが出来るのでしょうか。
何よりも、「心とからだ」を無視されて育った人が、自分自身の「心」や「からだ」と幸せな関係を築くことが出来るのでしょうか。
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先日来から、「からだ育て」のことを書こうと思っていたのですが、具体的なからだのエクササイズを書いてしまうと、「からだの訓練」になってしまうような気がして、なかなか書けないでいます。
「からだ育て」は方法ではないからです。でも、方法を書かないことには具体的に伝わらないことも分かりま� �。でも、方法を書いてしまったら、方法としてしか理解してくれない人もいるでしょう。
実際のワークでは相手の状態を見ながら補足を加えていくことができますが、ブログではそれが出来ません。
ということで、仲間を集めてワークを企画してくださる人を募集しています。
からだ育てのワークでも、気質のワークでも、子育てのワークでも、親子遊びでもOKです。
5人以上集めていただけばどこでも行きます。
「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。
詳しくは<チラシ>をご覧になってください。
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どうも現代人は「育てる」という感覚を忘れてしまったようです。
それは、子どもを育てる、地域のつながりを育てる、後継者を育てる、文化を育てる、心を育てる、からだを育てる、知性を育てるというようなことです。
その代わり、「鍛える」とか、「生産する」というような感覚ばかりが目立ちます。
この両者においては何が違うのかというと「主人公」が違うのです。
「育てる」という場合の主人公はその「育つ本人」です。それに関わる人や大人たちは、環境を整え、きっかけを与え、励ましながら見守り、成長を待ち、かつ成長を喜ぶ立場です。
それに対して、「鍛える」とか「生産する」と� ��うような場合の主人公は「鍛える人」であったり、「生産する人」になります。
その場合、その主人公は自分の行為の対象を監視し、指示命令を出し、追い立て、競争させ、評価し、服従させます。
「育てる」の基本は「待つこと」です。ですから待つことが出来ない人は育てることが出来ません。
そのような人は自分のスケジュールに相手を従わせようとします。
でも、成長には時間がかかるものです。成長は「成長の論理」に合わせてしか進行しないものなので、いくら叱られても、命令されても、叩かれても、その本人にすらどうしようも出来ないのです。
それで、追い立てられている子は要領よく見かけだけを整える方法を学びます。
思考力は「育つもの」ですから追い立てられている状況では育ちません。そのため、「暗記」を活用することによってなんとか対応しようとします。
小学生のうちはそれでなんとか対応できます。
感覚やからだも「育つもの」ですが、「鍛える」というような発想の人はもともとそのようなものには興味がないので、無視します。子どもの方も、そんなもの育てる時間もないし役にも立たないの で、「感覚」や「からだ」を育てることが出来ないまま大人になっていきます。
スポーツなどで「肉体」を鍛えても、「からだ」が育っていないので心もからだも固くなり、ケガをしやすくなったり、いわゆる「体育会系」の思考しか出来なくなります。
そのような人はスポーツの世界でも一流にはなることができません。
「待つ」という行為は「何にもしない」ということではありません。実は非常に能動的な精神的行為なのです。
確かに、行動としては何もしないかも知れませんが、心の中はものすごく働いているのです。
そして、周囲の人には「何もしていない」ように見えても、その「待ってもらっている子」には、「この人は待っていてくれている」ということが分かるのです。
それは行為を視覚� ��に確認することによってではなく、直接「感覚の共鳴」によって分かるのです。ですから、子どもはそのような人の周りに集まります。子どもには分かるのです。
でも、その共鳴を感じることが出来ない人には「何もしていない」ようにしか見えません。だから「何もしない」と非難されます。
現代人は肉体労働には価値を感じても、精神的な労働には価値を感じなくなってしまったのです。というより、そのようなものが存在していることすら分からない人がいっぱいいます。肉体的な労働は目に見えますが、精神的な労働は目には見えないからです。
また、肉体的な労働は「物を作る時」に役に立ちますが、精神的な労働は「生命を育てる時」や「芸術的な活動をする時」にしか役に立ちません。そしてそれは簡単、� �利を目指す社会とは矛盾する世界です。
簡単・便利に作品を作ろうとする芸術家などいないのです。芸術家は自分の作品を「作っている」のではなく、「育てている」のです。だから自分の作品を「わが子」と言うのです。
「待つ」ということは芸術的な行為でもあるのです。待つことを大切にする教育は、一種の芸術なのです。
だからこそ、待つことを忘れてしまった人たちに「待つこと」の大切さを思い出させるためには芸術を再生する必要があるのです。
人は、芸術の働きを通して「精神の働き」に目覚めるのです。
そして、自分の「からだ」と向き合う時も芸術家が作品を作る時のような芸術的な感覚で向き合うのです。
その度ごとに感じるのは、もしかしたらようやく入口までたどり着いたのかも知れない、という感覚です。いつまでたっても入口なんです。それだけ奥が深いということです。
そして、「からだ」と向き合っていると「心」も見えてきます。「心の世界」は「からだの世界」の延長にあるからです。
でも、ほとんどの人が「からだの世界」とは向き合わずに、いきなり「心の世界」に向き合おうとしています。現代人は「からだの世界」には価値を感じていないからです。そんなものが存在していることすら知らない人がほとんどです。
そして近代的な科学技術文明は「からだの世界」を否 定することで成り立っています。
確かに、現代人も「からだ」は大切にしています。ですから本屋さんに行くと「からだ作り」や「健康作り」の本がいっぱい並んでいます。
でも、そこで対象にされているのは「からだ」であって「からだの世界」ではありません。
現代人は、心には「心の世界」があるとということを知っています。でも、からだにも「からだの世界」があるということは知りません。
ですから当然、「心の世界」が「からだの世界」と共鳴していることも知りません。そして「からだの世界」を通らずにいきなり「心の世界」に入ろうとしています。
でも、それは無理なんです。また、「からだの世界」を通らずに直接「心の世界」に入ろうとすると非常に危険でもあります。無茶な「精神主� �」も「からだ」を無視することから生まれてきます。
ちなみに麻薬はそのための方法の一つです。最近流行りのスピリチャルブームも同じです。
「からだ」は一つの現実です。ですから「からだの世界」も感覚的な現実です。でも、「心の世界」は現実ではありません。だから「からだの世界」という現実とつなげて「心の世界」に入っていかないと、妄想によって創り出された現実離れした世界に取り込まれてしまう恐れがあるのです。
でも、それがまた現実逃避をしたい現代人には受けているのかも知れません。
また、シュタイナー教育でも子育て関係のことでも、子どもの心のことを理解するために、様々な本を読みますが、本で理解できることと、本では理解できないことがあります。そして、現実とつなが� �た「心の世界」のことは、本を読むだけでは理解することが出来ないのです。理解できたような錯覚を得ることが出来るだけです。
本を読むだけで「心の世界」を理解しようとすると観念論になってしまうのです。
実際には、「心の世界」のことを理解しようとするのなら、現実とつながった「からだの世界」と向き合う必要もあるのです。
でも、「心の世界」は言葉化出来ますが、「からだの世界」は言葉化できません。本当はその「言葉化できない世界」の体験が必要なのですが、言葉化できないために伝えることが困難なんです。
マスコミでも扱うことが出来ません。
また、「からだの世界」は奥が深いので、入口に辿りつくだけで何年もかかります。だから、結果を急ぐばかりの現代社会では「存在しな� ��もの」として処理されてしまっているのでしょう。
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