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日本人は無宗教か? 史上最大の発明 なぜ数学を勉強するのか? かのようにの哲学 稲垣良典:トマス・アクィナス マルコム・E・ラインズ:物理と数学の不思議な関係 ゾロアスター=ツァラトストラ=ザラストロ アキレスと亀 ウソつきは信用されない プラトン:ソクラテスの弁明 クリトン 饗宴(シュンポジオン)
日本人は無宗教か?
死の商人と言えば武器・弾薬を売る人のことを言いますが、私は宗教家というのも同じような気がしています。ふつうの日本人が何かの宗教に入信する動機は、たいていが自分か家族の病気や死です。つまり人の弱みにつけ込んで誘うわけで、不幸は信者獲得の絶好の機会であるわけです。
急いで言っておきますが、死の商人というのはもちろんたちの悪い冗談で、ふつうの人たちはそれだけ死というものに無関心か、無意識に遠ざけているということです。だからこそメメント・モリ(死を忘れるな)という中世キリスト教の言葉が今も強い説得力を持つのでしょう。
地下鉄サリン事件 から10年が経ちました。あの時、いろいろなことが言われましたし、正しい意見も少なからずあったと思いますが、「正しい宗教ならあんなことはしない」といった意見と、「科学を学んだ者がオウムなんかに入信するなんて」といった意見は違うなぁと思いました。
たとえオウムが宗教としては、麻原の空中浮遊に見られるようにインチキであったとしても、入信の動機(それが自分の病気や家族の死と関係していても、いなくても)に「なぜ自分は生きるのか」とか「なぜ自分は死ななければならないのか」という普遍的な、かつ理性では解決不可能な疑問が横たわっていたのであれば、それはやはり宗教の問題だろうと思います。同時に理性で真理を発見しようと希求する科学者であればこそ、こうした疑問に捕らわれやすく、徹底的に追求してしまいやすいのだろうと私は想像しています。
それ以上に困ったことに、宗教は純粋で活力があればあるほど「いけにえ」を要求します。倫理的には絶対的な悪である殺人や殉教という名の自殺を求めるのです。それはイラクやパレスチナで起こっていることを見ればある程度理解していただけると思いますし、60年前に特攻隊という「自爆テロ」を行っていた日本人が無自覚に批判できるものでもないと思います。
でも、一般的には日本人は無宗教だと言われます。神社に初詣に行くし、葬式ではお経が流れるし、何よりクリスマスはいちばんのお祭りだし……だのにふだんは神道にも、仏教にも、キリスト教にも関心がないと。それって(信者から見れば)無節操だとは思いますが、無宗教の証拠にはならないでしょう。特定の宗教にこだわらないだけです。
新年に自分と家族の幸福をお願いし、死者の冥福を祈り、年末に彼女(又は彼氏)との強い絆を求めるwのは、ごく自然な感情です。昔から学問成就は天満宮、安産祈願は水天宮、商売繁盛は戎神社と、神様を使い分けしていたのと同じです。つまり、やおよろずの神にお釈迦様やイエス様が入っているのです。
こういうふうに言うと、「おまえがごたまぜが日本の宗教って言うんだったら、その精神や教義がわかるような、聖書みたいなものを見せてくれ」って詰め寄られますよね。でも、そういうのはないんですよ。古代ギリシア・ローマだって同じで、神話しかありません。多神教ってそんなものです。だって、アニミズム、何にでも神的なものが宿るって考えですから、福音書みたいなストーリー展開も、パウロの手紙みたいな論理展開もむずかしいです。だいいち布教の必要もないし。
苦しまぎれに言うと、宮崎アニメ かなぁ……「千と千尋」とか「もののけ姫」とかにはアニミズムが満ちています(「ハウル」はまだ観てません)。だから、あんなに人気があるんでしょうし、そういう意味で日本人(こんなふうに一括りにされるのが嫌な人は多いでしょうけど)は、変わっていないとも言えるでしょう。ふつうは自然志向みたいに理解されてるんでしょうけど、なぜ宮崎アニメが(経験したことのない人にも)懐かしさを感じさせるのかはそれでは解けません。
気づかれた方もいらっしゃるでしょうが、アニミズムもアニメーションも、アニマル浜口wも同じ語源です。アニマとは「魂」という意味なのです。魂を持つから動くので、「トトロ」のどんぐりがみるみる大樹になる、あのイメージです。
史上最大の発明
世界三大発明というと活版印刷、火薬、羅針盤だそうで、ヨーロッパの覇権確立という観点から言って肯けるものがありますが、私は現在のアメリカの隆盛とイスラム世界の台頭ぶりを見ると、一神教こそが人類史上最大の発明ではないかとひそかに思っています。宗教が発明品だなんてとんでもないことを言ってるようですが、(仏陀やキリストやムハンマドのように)宗祖のいる宗教はそう理解した方がわかりやすいでしょう。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教から分離したり、それに触発されたりしてできたものですから、大本は古代ユダヤ人の発明です。誰が宗祖かと言うと紀元前10世紀より前の話のようですから、よくわからないところが多いのですが、モーゼがいちばんの候補でしょう。ただ旧約聖書では当然のことながら、モーゼ以前から唯一神ヤハウェ(エホヴァ)への信仰があったことになっていますから、「発明者」が誰かははっきりしません。
神が唯一だという概念自体は、今となってみれば不思議でも何でもないかもしれませんが、それを最初に主張するのは天才のみが可能な思想的飛躍だと思います。前回でも少し述べたように畏怖の念を抱くものにそれぞれ神や霊が宿るというアニミズムの考えの方がわかりやすいですし、現に他のほとんどの古代宗教はそうなっています。つまりアニミズムから相当程度の抽象的思考を経なければ神の数は減りません。リストラは常に痛みを伴いますw。神の数を減らすことは、例えば家や部族のそれぞれの守護神を滅ぼすことでもあったはずです。
数が減ってきても最大の問題があります。それは二項対立 の克服です。最古の超民族宗教だと思われるゾロアスター教が善と悪、古代中国の陰陽五行説が男性原理と女性原理となっているように、抽象化が進んでもなかなか一つになりません。なぜなら神が唯一であればそれは善なる神でなければならず、善なる神だけがこの世界を支配しているとすれば、なぜ悪や不幸があるのだということになってしまうからです。これに対し、二項あればお互いの闘争とか、交代とかで説明できる、つまり最終的に善が勝つまでの過渡期とかなんとか言っておけばいいからです。
ユダヤ教が神を一つに絞り込んでいったのは、それだけ古代ユダヤ人の置かれた状況が厳しかったことが大きな要因でしょう。出エジプトだとかバビロン捕囚だとか、まあ強大な民族の通り道で民族のアイデンティティーを維持するのは容易ではなかったでしょう。強力な権力の確立が困難だったので、強力な権威を創造し、求心力を保ったのです。そして、それは現代に至るまで(最強国家のアメリカの中で強いポジションを占めているという意味も含め)有効なわけですから、ユダヤ教は宗教的天才であり、かつ政治的天才の産物なのです。
ただ、全知全能の神の下でなぜ悪や不幸があるのかというテーマは残るわけで、いわゆる弁神論 として追求されていきます。嚆矢は有名なヨブ記 ですが、悪魔が敬虔なヨブにありとあらゆる不幸を与えて信仰を試すという極めて文学的な内容で、現世利益がなくても信仰は可能かという、殉教までつながるような永遠のテーマを含んでいます。「主は与え、主は奪う」というヨブの叫びは、ユダヤ民族全体の声であり、一神教の特徴を端的に表わしています。
ユダヤ教は民族宗教として排他的であったからこそ、一神教として成長できたのだと思います。キリスト教もイエスの存命当時は、ユダヤ教内の分派活動で、仏教ふうに説明すれば出家(パリサイ人など)への在家からの批判運動です。
それを超民族宗教に拡大したのは広く知られているようにパウロ であり、その地盤を作ったのは超民族国家であるローマ帝国、つづめて言えばカエサルです。つまりイエス個人とキリスト教は無関係だというニーチェの指摘は、正しい面があると思います。
ただ超民族宗教への脱皮も一挙にできたわけではもちろんなくて、教父と呼ばれる人たちの地道な布教活動と公会議による分派活動の抑圧と正統的権威の確立によるところが大きく、外典・偽典の存在自体が聖書の編纂が政治的意味合いを持っていたことを示しています。また、アリストテレスや「一者からの流出」という重要な概念を提示したネオ・プラトニストたちの影響を受けて、トマス・アクィナスに至る多くの人の努力により思想的に洗練されたことが挙げられるでしょう。トマスによってキリスト教神学=ヨーロッパの中世思想は頂点に達したのです。
他方、イスラム教についても同じような状況があったようです。すなわち、急速な版図の拡大と思想的な分裂、危機を乗り越えて、ムハンマドの教えはイスラム教として確立してきたのです。イスラム教哲学については、私は井筒俊彦の著書を通してしか知りませんが、アリストテレスから出発しながらキリスト教とは違った非常に高いレヴェルの思想を形成していたようです。
さて、ずいぶん退屈な説明を続けてしまいました。要約して言えば、超民族的な一神教の確立には、強力な政治権力と哲学的な鍛錬が必要だった、それだけ人工的なものだと言いたかったのです。
ただユダヤ教やイスラム教と比べて、キリスト教は現実的というか、妥協的というか、まあいい加減なところが多いように思います。クリスマス自体が土着信仰の冬至祭に由来するものですし、その他の年中行事も古ゲルマンなどの信仰を取り入れたものです。そうすることによって、信者を獲得しやすくしたわけです。日本のお寺がお彼岸やお盆に祖先の霊を弔うようになったのとちょっと似ています。キリストの磔刑像を拝む偶像崇拝や聖母信仰や多くの聖人のような多神教的傾向は、絵画を始めとした文化の発展に大きく寄与しましたが、プロテスタントを産む背景にもなっているように思います。
現在では、活版印刷がDTPに、火薬が核兵器に、羅針盤がGPSにそれぞれとって変わりました。しかし、アメリカとイスラムという一神教勢力どうしの妥協を知らない葛藤は、十字軍対ジハードの昔と変わりないように見えます。日本みたいな国にとっては迷惑千万なことです。強固な信仰は人間の偉大さを見せてくれる一方で、核兵器以上に危険なこともあると思います。
なぜ数学を勉強するのか?
1.いちばん嫌いな教科 「いちばん嫌いな教科は?」と訊かれれば数学がダントツでしょう。その傾向が小学校、中学校、高校と上がっていくにつれて加速されているという記事を読んだことがあります。文系、理系の志望動機も数学ができるかどうかがカギのような気がします。であれば、数学なんか社会に出て何の役に立つのだ?という八つ当たり的な疑問が湧くのも当然でしょう。
確かに研究者や技術者になって数学を日常的に使う仕事に就かない限り、四則演算程度、すなわち算数ができればいいとも言えます。確か菊池寛だったと思いますが、実社会に出て数学の知識が役立ったのは「三角形の二辺の和は他の一辺より長い」だけだ、まわり道をしなくてすむからと言ったそうです。また、これもうろ覚えですが、高名な作家が数学なんか知らなくても自分は何も困らなかったとのたまわったそうです。よほど数学に苦しめられたのでしょうw。
かく言う私も数学は大の苦手教科で、上に書いたことは学生時代の自分の心の叫びwを今になって代弁したようなものです。数学が受験科目からなくなるなら、学校の窓ガラスを何枚でも割ったでしょうw。
数学なんか実生活で役に立たないじゃないかという疑問に対する答えも記事にあったようです。探すのが面倒なので、かなり適当ですが(どなたか教えていただければ幸いです)、論理的に考える訓練になるからというのがあったと思います。これは例えば英単語を覚えれば記憶力の訓練になるからというのと同様で、なぜ数学でなければ論理的思考の訓練にならないのかが答えられていない(十分条件が証明されていない)という意味で、少なくとも数学者の答えではないでしょうw。
数学は自然科学のあらゆる分野で使われているからという答えもあるでしょう。自然科学だけでなく、経済学などでも微積分がわからない学生が入学してきて困っているという話を聞いたことがあります。一芸入試だか、AO入試だか知りませんが、基礎の基礎を知らない学生が入ってくるようにしたからで、自業自得だと思いますけど。……ともかくこれも比喩で言うと、英語は実態上世界共通言語だからと言うようなもので、説得力はさっきのものよりあるでしょう。ただ、数学を使うような学問や仕事には寄りつかないという受験生は、外国にも行かないし、外国人とも話なんかしないという強情なw受験生の数より多いでしょう。どちらも自分の可能性の範囲を狭めていることには変わりないですが、狭くして困る度合いは英語� �方がずっと大きいだろうなぁと思います。
これ以外には、役に立とうが、立たなかろうが数学は人類の英知の結晶なんだから文句言わずに勉強しろ!っていうのもあるでしょう。私は個人的にはこう言ってくれる人が好きです。なぜ人類の英知の結晶なのかをきちんと説明してくれればですけどw……なぜ古文、例えば源氏物語なんかを勉強しなきゃいかんのだという問いの答えとしてはこういうのしかないなぁと思います。でも、現国なんかで作家が死んだ途端に(時には死ぬ前に既に?)忘れられるような小説をなぜ読まなくてはならないのかという問いには、もうつべこべ言わずに勉強しろ!しかないでしょう。